
- 599 名前: 清夜 (1) 投稿日: 03/06/01 02:24 ID:64zONfcR
- 修学旅行のその日は、クラス単位の宿泊だった。
真夜中の大部屋で、他グループの数人の女子たちがかしましく交わす話を密かに聞きながら、
しかし、榊はある種の怖さをひしひしと感じていた。
話がクラスの男子の値踏みから始まった時点では、人の価値を容赦なくランク付けして
低位の者を切り捨てる残酷さに抵抗を感じながらも、まだどこか痛快な共感も得ていられた。
だが、やがて話題が「性」の領域へ深く分け入り、
生々しい見聞や体験談が主な流れになってくると、次第に榊の心はおののき始めた。
その種の事なら、過去にも、例えばみなもの猥談などで学んだことがないではない。
しかし、まだ「大人」の話として、それなりの距離を保って聞けたあの時とは違い、
自分と同年齢の、しかも身近に見知っている者たちが、自分の知らない世界の話題を当然のように
語っている事実は、不気味な異郷に迷い込んだような不安と疎外感を榊に感じさせるのだった。
まして、このような時には微笑ましい話より愚痴や噂の方が口に上りやすいのが
常であってみれば、断片的な語りに盛られるのは、もっぱら性に関わる醜悪な諸相ばかりだ。
苦痛。乱脈。エゴイズム。打算。幻滅。裏切り。洒落では済まされないような事態のもろもろ。
まともな恋愛経験すらない榊にとっては、信じがたいほどのおぞましさがそこにはあった。
もはや興味より嫌悪感の方がはるかにまさり、榊はもうこれ以上聞きたくないと強く願っていた。
だが一向に話が止む気配はなく、見回りの教師もさっき来たばかりで当分は現れないだろう。
(もちろん来たとしても、話はさっき同様、一時的にしか止まないだろうが)
かといって、耳を塞いで眠るにはあまりに刺激的な話でありすぎる。
それゆえ最後の方法として、榊はこの場から出ていきたい衝動としばらく戦い続けていたのだった。
- 600 名前: 清夜 (2) 投稿日: 03/06/01 02:27 ID:64zONfcR
- 「……それで結局さ、そいつの遊びでヤラれちゃった子……妊娠してるって」
そこで限界を迎えた。榊は布団から這い出すと、できるだけ目立たないように、
そしていかにも今起きたばかりといった足取りで、ゆっくりと襖の方へ歩き始めた。
周りには五人の友人たちが眠っており、その布団の間を縫っていきながら、
自分のグループの面々がいかに奥手で幼いかを榊は再認識した。
班ごとの部屋割りだった前のホテルでは、そんな話題などほとんど出なかったのだから。
だが――自分には、その方がいいのだ。
たとえダサいと嘲笑われたって、まだ、あんな話に加わりたいとは思わない……。
襖をそっと開けて点けた玄関の明かりが、すやすやと寝息を立てている
ちよのあどけない表情を照らし出す。それを眺め、密かに微笑みながら榊は部屋を出た。
廊下を少し行ったトイレに向かい、個室へ入る。
ひんやりとした静寂に包まれて落ち着きながら、いっそこのままここに隠れていようかとさえ
本気で考えかけていた時、誰かが後から入ってきて、隣の個室に入りながら小声で呼びかけてきた。
「なあ……榊だろ?」神楽の声だった。「出たら、ちょっと付き合ってくれないか?」
しばらく後、洗面台の前で寝乱れた髪を撫で付けていた榊のところへ、やがて神楽が出てきた。
「ちょっとさ……。先生もしばらく来ないだろうし、二人で話でもしないか。眠れなくて」
「私もだ」かすかに苦笑しながら、榊は答えた。
呑み込んで、神楽も苦笑いを返した。「あいつら……本当、うるせえよなあ」
二人は暗い廊下を歩き、フロアの端にある狭い休憩所へ向かった。
そこは半ば部屋のように仕切られていて、テーブルを挟んで座りながら窓から外を眺めることができた。
目立たないように明かりはつけなかったが、傍らに佇む小さな自動販売機のランプと、
そして窓から弱く差し込む月の光が、静かな空間を薄明かりで照らしてくれていた。
「何か、ちょっとワクワクするよな」神楽の言葉に、榊も共感した。
程よく手狭で、秘密めいていて、そして寂しくはない。どこか懐かしい心地よさだ。
- 601 名前: 清夜 (3) 投稿日: 03/06/01 02:28 ID:64zONfcR
- 神楽が、ポケットに入れてきた小銭で二人分のコーヒーを買った。
そしてそれらをテーブルに置くと、脚を組んでどさりと座り込み、おもむろに話を始めた。
「……ああいう話に、おまえはあんまり巻き込まれたりしないだろ?」
「うん……」
「私は部活の合宿とかで、どうしても付き合わされるからなあ。
今日みたいにシカトはできないんだよ。本当は苦手なんだけど、何とか合わせてさ。
そういうときは、クールで通ってて一目置かれてるおまえがうらやましいと思うよ」
榊は微笑した。「確かに、私をお風呂に誘うような人は、君の他にはいなかったな」
榊が珍しく軽口めいたことを口にしたので、神楽は少し意外な顔をしてから快く笑った。
二人の間に、打ち解けた空気が流れた。
少し間があってから、コーヒーを一口すすり、神楽が言った。
「私こんなだから、そういう話のときは、結構さばけたようなキャラ作ってんだけど……。
やっぱ本当は、全然ついていけなかったりして、不安だったりして。
後輩が泣きながら男関係の相談とかしてきた日にはもう、とにかく安心がらせなきゃって、
いろいろ言っとくんだけど……本当は何もわからねえし。
私は男と縁ないって、前に言ったろーって!」
「慕われてるんだろう」榊は、むしろ少し羨ましい思いだった。
「まあ、良く取ればな……。けどさ」神楽は、神妙な顔になっていた。
「そういうときなんか、年下の奴でも自分より全然いろんなことやってるんだって思い知ると、
何か怖かったりもするんだ。劣等感…とかじゃないだろうけど……」
「……そういうのは、個人差だと思う」榊は慎重に口にした。「焦らなくてもいいんじゃないかな」
神楽はカップを見つめながら、「うん……」と、少し心強さを得た様子で答えた。
「まあ、そうは思ってるんだよ。ただ、ちょっと自信が足りなくて。
……でも、頭のいいおまえが言ってくれると何か安心する。ありがとうな」
本当は、榊だって自信たっぷりとはいかない。焦りみたいなものだってどこかにある。
けれど自分もまた、信頼してもらえることで心強くなれる。こういうのが友達の有難さだと
榊に教えてくれたのは、よくこうして本音で話をしてくれる神楽その人なのだった。
だから、榊も心の中で神楽に感謝を捧げた。(ありがとう)
- 602 名前: 清夜 (4) 投稿日: 03/06/01 02:29 ID:64zONfcR
- しばらく間があった。神楽が残りのコーヒーを飲み干し、そして少しもじもじした様子で口を開いた。
「……あのさ、榊。本当に、おまえも誰かと付き合ったことってないのか?」
「ない」
「そうか。ごめん、ちょっと聞いてみたかっただけ。
でも、何か親近感が沸いたっていうか、ホッとしたっていうか」
「ホッとした……?」その言葉を気に留めて、榊は訊く。
「へ、変な意味に取るなよ」神楽は敏感に拒否し、そして言葉を探し探し語った。
「つまりさ……。私、ずっとおまえをライバルってことで意識してきたわけじゃん。
おまえには知られてなくても、こっちは一年のときからそうだったし、
友達になったのもそれがあったからだし。
で、そんなふうにしてると……やっぱ、『私の方を見てろよ』っていう思いが出てきてさ。
おまえに、もし私よりずっと特別な相手がいたりとかしたら、何か嫉妬しちまうじゃないか」
同意を求められたって、榊にはそういう感情はわからない。
が、それは間違いなく好意の一種なのだろうと思えば、やはり嬉しい気がするものだった。
だから、榊ははにかんでコーヒーをひと飲みした。
ふと神楽が、少し目をそらしてつぶやいた。
「結構、それって気になってたんだぜ。おまえなら、私の知らないところで
男と付き合ってたって全然おかしくねえからさ」
「私なら……?」榊が尋ねると、神楽は気恥ずかしそうに頬を触りながら答える。
「だって……おまえ、私とかよりずっとモテそうじゃん。美人だし、女らしいし」
榊は戸惑いを覚える。「君の方こそ、内気な私なんかと違ってモテそうな気がしてたよ」
「そりゃ男と話すことも多いけど、私はただガサツなだけで、甲斐性ないもん……。
そんなふうに綺麗に髪伸ばしたりとか、絶対できない」
しばし沈黙が下りた。榊は間をもたせようと、残りのコーヒーに口をつけた。
だが、ちびちびと飲み続けても一向に静寂は破られず、とうとう全部飲んでしまって
カップを置いたとき、神楽がそれを待っていたようにゆっくりと切り出した。
「なあ、変なこと言うけど……その髪、ちょっと触らせてくれないか」
- 603 名前: 清夜 (5) 投稿日: 03/06/01 02:30 ID:64zONfcR
- 「えっ……?」
「何か、少し興味っていうか、どんなのかなって。もちろん、イヤっていうなら……」
奇妙に親密さを求めてくるその申し出に、榊は少なからず戸惑いを覚える。
しかし――この憎めない友人を相手に、嫌だなんて言えるだろうか?
「……少しだけだぞ」榊は立ち上がって窓辺の方へテーブルを回り、髪の端を整えた。
神楽は、榊に対してやや斜めの方から歩み寄り、流れる髪の中からひとすくいをそっと手に取った。
「ああ、やっぱ手触りもいいな……」神楽の指が、たどたどしく髪を揉みさすった。
そしてしばらくの間、榊はじっと見つめていた。宵闇に溶け込みそうな自分の黒髪が、
白く映える指の中でかすかに輝きながら、もつれ合い、解きほぐされ、思うままに弄ばれるのを。
静寂の中で続けられるその戯れに見入るうち、ふと榊は、自らの呼吸音を奇妙に意識し始めた。
そして、神楽が自分のすぐ側から発するぬくもりも、かすかな汗の香りも――。
「……ちょっと、憧れてるのかもな」神楽がつぶやきを漏らした。
「おまえが走るとき、跳ぶとき、いつも私はその動きの隅々まで見てる。
そうすると、この髪もどうしたって気になるわけでさ。
ゆらゆら揺れたり、真っすぐになびいたり、ふわっと翻ったり。
そういうのって、何か…すごく綺麗な感じがして。触ってみたいって、いつからか思ってた」
いつしか、神楽の指はより深く髪に絡み付き、より夢中になってその感触を愛でているようだった。
明らかに、神楽はこの行為に喜びを覚えているのだ。
少し背徳的な匂いを察知し、榊は否定的な話をして逃れようとした。
「私がこうして伸ばしてるのは……単に、せめてそういう所で女らしさを残すしかなかったからだと思う。
こんな大きな身体だから……」
「言ってくれるよな」神楽の小さな溜め息が聞こえた。「私は、その身体が欲しかったのに」
その言葉から一瞬、淫らな連想をしてしまい、榊は自分に驚いた。
- 604 名前: 清夜 (6) 投稿日: 03/06/01 02:32 ID:64zONfcR
- 「か…神楽、もういいだろう」言って、少し強引に髪をかき寄せる。
髪を離した神楽の指が、物寂しさをかみしめるように弱く握り締められる。
が――わずかな間をおいた次の刹那、その指は不意に、榊の腕に向かって伸びてきた。
「ちょっと……身体の方も触らせてくれないか」
言ったときには既に、素肌を指が探っていた。
息を呑む榊の腕を、神楽は指を蠢かせてゆっくりとなぞっていく。
髪のときとは違い、神楽の体温も、指先の柔らかな丸みも、もはや直接に榊の肌へ伝わってくる。
呼吸への意識がいっそう強くなった。そして今や、神楽の呼吸まで入り混じって聞き取れる。
神楽……なぜ、こんなことで君の息がそんなに大きくなっているんだ? ――いや、私もなのか?
「……本当、うらやましいな」神楽の声は、どこか熱を帯びていた。
「長くて、バランスよくて、筋肉もしっかりついてて、そのくせ……すごく綺麗だ」
「そんなの、君だって――」言う榊は、いつしかもう一方の手で神楽の腕を触り始めていた。
私は一体、何をしている? 意識の片隅では、自分の行為にそう驚愕している。しかし――
少し焼けた腕の、思いのほか滑らかな肌触り。かすかな脈動。うっすらと汗に濡れた産毛。
そして筋肉の固い感触は、身体の奥のどこかから、逞しいものを求めている獣的な欲望を呼び覚ます。
ああ、きっと私は神楽と同じように感じ合っている。こんなふうに気持ちいいんだ――。
窓からの月明かりが、触れ合う二人の身体を照らし出していた。
どこか野生の猫を思わせる神楽の眼は強く輝いて、榊の身体を見つめるまなざしは隠れもない。
そして榊の眼も、少し小さな神楽の身体をいとおしく見つめていて――。
神楽が見上げた。二人の瞳が出会った。
そのとき榊は、神楽の指先が肩口から衣服の下へ潜り込むのを感じた。
衝動が走った。榊は応えるように神楽のうなじへ掌を滑り込ませ、ぎゅっと抱き寄せた。
その一瞬、神楽の身体の柔らかなふくらみも、くびれも、息づくぬくもりも、
全ての感触が榊の中へ食い込んだ。
- 605 名前: 清夜 (7) 投稿日: 03/06/01 02:42 ID:64zONfcR
- 「……ば……ばかっ!!」
数秒の時をおいて、神楽が弾かれたように身を引き離した。
だが、それは拒絶というよりむしろ、自分自身へのおののきに駆られたゆえのように映った。
「そ……そんなの、おかしいだろ? 不自然だろ!?」
「女同士なら」自分でも思いがけなかった力強い反論の原動力は、
あれらの醜悪な物語に対する抵抗心だった。
「妊娠の不安もないし、必ずしも痛くしなくたっていい……。そんな利点だって、あると思う」
「お、おまえって……そんなこと言うのか!?」神楽は動揺の色を見せながら、眼を丸くする。
「そ、そりゃ……頭のいいおまえだから、そういう考え方もできるのかもしれないけど……。
けど、やっぱりそれだけはダメだ! 帰るぜ!」
背を向けて去ろうとする神楽に、榊は素早く声をかけた。
「本当に、あそこに戻る方が私といるよりいいのか」
そして、神楽が足を止めるのを見ながら。「私は、君といたい」
「何だよ、それ……」神楽が、畏怖するようなこわばった笑いを浮かべて振り帰った。
「何でおまえ、そんなに駆け引き上手いんだよ……」
月光の中で、榊と神楽は見つめ合う。
それは、二人がこれまでに交わした中で最も静かな勝負だったのかもしれない。
- 606 名前: 清夜 (8) 投稿日: 03/06/01 02:43 ID:64zONfcR
- そして――屈したのは、神楽の方だった。
「ちぇ、参ったな」髪をかきむしりながら戻り、ソファに腰を下ろし直す。
妙にふんぞり返ってみせるのは、せめてもの矜持だろう。
「でもな、いいか……ここからはあくまでも、友達としてのお喋りだからな」
「判った」そう言って席に戻った榊に、神楽は目をそらして付け加えた。
「……まあ、もし万が一そういう付き合いするとしても……。
その前におまえのこと、もっと知っときたいからな」
榊は、にっこりと微笑んだ。
そして神楽の問いに導かれながら、自分の事をぽつりぽつりと語り始めていった。
来歴。考え。喜びや悩み。ほとんど他人に話したことのない、いろいろな話。
いつしか二人とも、窓の外を見ながら話していた。
ふと頭をめぐらし、真摯に耳を傾けてくれる神楽の横顔を見つめたとき、榊は不思議と確信した。
遠からず、その肌に再び触れる日が来るのだろうと。
――きっと私たちの間になら、汚い未来なんかない。二人の性は、この月明かりのようになれるだろう。
今は、そう思えるのだった。
(了)