
- 34 名前:Beyond (1) 投稿日:03/08/01 22:05 P0Qzx+M1
- 中の上ではなく、上の下に食い込んでおくこと。神楽の課題は、最後までその段階で終わった。
大学最後の夏、大会で出した記録は賞賛を受けた。この体格でここまで行けたのは素晴らしいと。
それはもちろん誇るべきことだったが、あくまで体格の問題を前提にしてのことだ。
瞼の裏に焼き付けた最後の水面の輝きを幾度も反芻しながら、神楽は一人の女を思う。
もし、同じ道であいつと今なお競っていたら?
そんな仮定はどこまでも仮定だ。けれど――自分のこの記録が勝てただろうとは、
どうしても信じることができなかった。あの体格と才能の前には。
そしてそれが、長かった勝負の結論なのだ。
「おまえがあのとき水泳部に入ってたら、たぶん私はもっとはっきり、自分を見切れただろうと思う。
子供の頃からやってた水泳が、プライドの中心だったからね」
相手してやっていたマヤーが眠り込んでしまったしばらく後、神楽は寝転がったままつぶやいた。
榊はレポートを書く手をキーボードの上で止めた。
「でもそうなったら、他に大したものもない私は、空っぽになって潰れてただろうって……。
だからやっぱり、これでよかったんだって自分に言い聞かせてる」
「そういう話は、もうしないはずじゃなかったのか」榊が、珍しく鋭さを含んだ声でとがめた。
もちろん、自己防衛のためでないのは明らかだ。
だが神楽は静かな声で続ける。
「判ってるよ。おまえだって苦しんだこともよく判ってる。
二年の夏に立ち直ってからは、もうそんなことは口に出さなかったし、
実際、そんな考え方は捨ててやってきたよ。
それでも……。心のどこかじゃ、最後まで信じたがってるもんさ。奇跡が起こらないだろうか。
ドラマみたいに、今までの努力が報われてクライマックスで大逆転できないだろうかってさ」
榊はPCを畳み、神楽の方へ真摯に向き直った。「そうか……」
「明日は、ともも大阪もよみも来て、水泳引退の記念パーティをやってくれる。
その時まで、こんなモヤモヤした思いは引きずりたくない」
神楽は言いながら起き上がった。
「卑怯で情けないのは本当に判ってる。でも、これが最後だから……。
今だけ、思いきり憎ませてくれないか」
そう、よく判ってはいる。けれど今は、そんなことでも――。
- 36 名前:Beyond (2) 投稿日:03/08/01 22:15 a+fyUHbc
- 先にシャワーを使った神楽は、開けた窓から夜空を眺めていた。
素肌に着込んだTシャツの上からも、夜風は心地よく肌を冷やす。
そういえば、立ち直りを決めたあの夜にもこうしていたっけ。
今では信じられないぐらいだが、あの時は煙草を咥えていたのだ。
それをここできっぱりと投げ捨てた時、それまでの腐っていた自分も一緒に捨てたと心に誓い、
スランプのどん底から這い上がってみせた。それは自分で手に入れた誇りだ。
今ではあの時と違って、展望も明確だ。教育実習で会った生徒たちが応援してくれた時、
必ず先生になるよと神楽は答えた。果たして、試験にもここまでは合格している。
たとえこの後が駄目でも、簡単に諦めはしない。
道を押し開く自信は、あの経験から掴み取ったのだから。
そう、自分は水泳から多くのものを得たではないか。
自分なりの克己。自分なりの悟り。自分なりの栄誉。
きっと、憧れた一流選手たちの何分の一かぐらいの領域までは知ることができたのだ。
それで満足すればいい――。
神楽は窓を閉め、そこに映り込む自分の姿を見つめた。
水泳に全てを賭けて、小柄ながらも力強く鍛え抜かれた肉体。結構、よく磨けたなとは思う。
大きな乳房だけがやや不釣り合いだ。神楽はふと考える。
もしスポーツを早々に捨てていたなら、例えば男から欲望の対象にされることで
存在意義を得るような女になっていた可能性も、ないとはいえない。
今までに、挫折に屈して信じがたいほど変わってしまった人間も見てはいるだけに。
(ところが、私ときたら――)神楽は苦笑した。思えば、何と奇妙な運命だろう。
男ではなく同性、しかも自分に挫折を教えた当人である一人の天才に、この身も心も捧げたのだから。
そして、その相手がかけてくれる想いに釣り合う人間でありたいという願いこそが、
今度は自分を立ち直らせたのだ。人から見れば、ずいぶん奇妙な愛憎関係と映るだろう。
その憎の部分を、今夜、思いきり叩きつけて終わりにしよう――。
浴室のドアが音を立てた。振り向いた神楽の前に、バスローブを羽織った榊が歩み寄ってくる。
神楽は向き合った。「……すまないな」
「謝るなよ……」榊はかすかに苦笑する。
「初めに言っとくのさ。ここからは、もう謝らないからな」神楽は、榊の手首を強く掴んだ。
- 37 名前:Beyond (3) 投稿日:03/08/01 22:18 a+fyUHbc
- 榊は布団の上に座り込み、凛として美しい切れ長の目をじっと鏡に向けた。
(初めて会った頃、この目は取っ付きにくかったよな)神楽はそう思い出す。
一方的に意識し、相まみえることを望んでいた自分を、関心もなさそうに一瞥した目。
自分には追いつけない天分を持ちながら、それに何の自負も抱いていない冷ややかな目。
あまり意識はしなかったけれど、やはりそれは屈辱で、
だから自分の存在を榊の心に刻み付けてやろうと挑み続けた――。
もっとも、その結果がこんな関係に至り着くとは予想だにしなかったけれど。
あの頃以上に美しくなった榊の目に、今の自分は、
汚される榊自身の痴態を存分に見せつけてやるのだ――。
そしてそのためにこそ、汚れる前の姿は思いきり可愛く。榊の首に、お気に入りのピンクのリボンを。
そして、つややかな濡れ髪をもリボンで可愛らしく結わえてみせる。それは一方で
髪が絡みにくくするための方途でもあって、つまりこれからの激しさを宣告する作業でもあった。
(こんな女らしい綺麗な髪のままで、私より運動できちまうなんてさ)流れる髪を撫でながら、
卑怯だよ、と神楽は心の中でつぶやき、憎しみをわずかに増幅させる。
そして神楽は、背後からバスローブの胸元へ手を滑り込ませた。
「あっ……」
敏感に息を吐く榊の左乳房へ手を這わせ、下からゆっくりと揉み上げながら、心臓の鼓動を探る。
どきどきと打つ脈動に、榊の偽りのない緊張と期待を感じ取って、神楽は心を強くする。
「脱がすぜ……」耳元で囁いてみせると、榊は恥じらいの色を浮かべながら、自ら帯を解く。
神楽はその襟をそっと開き、肩まで露出させてから、
うなじに指を入れ、ゆっくり背中をなぞりながらバスローブを引き下ろしていく。
指の感触に、早くもぴくりと震える榊の反応をいとおしんで。
すべての覆いが滑り落ちた後、匂い立つボディソープの芳香と共に、榊の裸身が露わになった。
局部をごく小さな純白のブラとショーツで隠しただけのその身体は、
二十代に入った今では妖しいほどに成熟しきって、しかも全く崩れを見せない均整を保っている。
(そうだよ、おまえの身体が完璧すぎるんだ……)その体格も、内に秘めた能力も。
すらりとして長い榊の腕を取り、あらためて見つめ直しながら、神楽は憎しみを新たに注ぐ。
- 38 名前:Beyond (4) 投稿日:03/08/01 22:21 a+fyUHbc
- 才能には、最初の段階からの不平等があると自分に教えた身体……。
――畜生!
榊の唇を、神楽は食らいつくように激しく奪う。絡ませる舌に、榊は積極的に応じてくる。
多分、むしろ安心しているはずだ。ごく普通の愛し方から始めてくれたことに。
だが、今日はそこまで優しくはしてやらない――。
神楽は、ジーンズのポケットに忍ばせたスイッチに触れた。
前もって入れさせておいたローターが、榊の中で蠢動し始める。
榊が驚きに目を見開き、逃れて叫ぶ。「そ…そんなっ……もう!?」
神楽は聞く耳も持たずに覆い被さり、その舌を強く吸い上げて黙らせてしまう。
そのまま柔らかな口内を犯しながら、榊を押し倒す。身体の上下から快感を流し込まれ続ける榊の、
熱く漏れる呼吸も意には介さない。
榊が、両腕で神楽の頭をぎゅっと抱え込んできた。一体感を得て愛情を確かめたいか?
(だが、嫌だね!)神楽はその腕を掴んで無情に外すと、シーツの上に強く押し付けた。
(今日のおまえは、犯されるだけの役だ――愛情なんてくれてやるか!)
抵抗をねじ伏せる感覚を楽しみながら、神楽は獣のように榊の味をむさぼる。
舌を絞るようにしゃぶり上げ、並んだ歯の裏を繰り返しなぞり、
口蓋に舌先を突き立てて執拗なまでに責め回す。
快感が榊の許容量を超え、逃れたがっているのも十分に承知しながら、なお許しはしない。
やがて、たっぷりと責め尽くし、飽きてしまってからやっと神楽は榊を解放した。
ねっとりと光る榊の紅い唇から、封じ込まれていた喘ぎが途切れ途切れに漏れ出してくる。
健気に閉じられた瞼の線は、しっとりと濡れていた。
「キスだけで、もう泣いてやがるのか?」涙混じりの息遣いに耳を傾けながら、嗜虐の言葉を神楽は吐く。
「で、こっちはもっと……」
言いながら、既に十分な湿りを帯びたショーツの中央を指で軽く弾いてみせる。
「いやっ…!」榊はそこを手で押さえ、隠すように身体を横に向けた。
が、その中での休みない振動に耐えようとして、汗ばむその太腿はもぞもぞと蠢き続けている。
榊の口から懇願が漏れる。「み…見ないで……こんなの……」
やや男性的な低い声を、恥辱に震わせて。
「言っておくけど」榊の痴態を見下ろしながら、無慈悲に神楽は告げた。
「まだまだ、始まったばっかだぜ」
- 39 名前:Beyond (5) 投稿日:03/08/01 22:22 a+fyUHbc
- 神楽は、榊の身体を引き起こす。従順に座り直した榊の背後に戻って、身体を密着させる。
既に榊の身体はうっすらと汗に輝いていて、
帯びている昂ぶりはTシャツを通しても感じられるほどだった。
首筋にかかる髪をかき退けて、肩越しに顎の下へ舌を這わせる。榊の特に弱いところで、
普通なら怖がられて手を出さないほどだ。
「もう、いやだ…そんなのばっかり…!」
懸命に身をよじりながら、榊は神楽の頭と肩に手を当てて押し戻そうとする。
だが、神楽はさらに乳房までも責めにかかる。
掴むというより支えるとしかいえないほど豊かな乳房を、両の手でぐしゃぐしゃと凶暴に揉みしだく。
小さなブラの中へ人差し指を探り込ませて少し弄れば、たちまち乳首は隆起して、
薄い布をはっきりと突き尖らせた。それを見せつけるように乳房を絞り上げると、
榊はそちらを隠す方へ手を移動させる。
「んん……あぁ…ぁっ…」既に、顎の下のくすぐったさも純粋な快感へと突き抜け始めたのか。
榊の瞳はうっとりととろけ始めており、
胸を隠そうとすることで辛うじて理性を繋ぎ止めているかのようだった。
神楽は容赦なく、ブラの戒めを解く。はらりと紐が垂れ下がる。
榊は乳房の上から掌で懸命に押さえ込んで守るが、神楽はその手を外させようとはせず、
逆にその上から自分の掌を重ね、指を絡め合うようにして乳房を揉ませる。
「いや……そんな……」
うわ言のようにつぶやきながらも、榊の指の動きにはやがて意思の力が加わり始めた。
神楽は頭を下げ、ブラの紐を咥えてそっと抜き取る。もはや榊の手は隠す目的さえ忘れ、
今や露わになった自らの乳首を指の間であられもなく揉みしだき始めていた。
「そうだ、しっかり揉んでろよ……」
神楽は命じると、胸から外した両手を腰の方へ下ろしていき、ショーツの紐に指をかけた。
右側を、くい、とずり下ろす。もとより小さな三角の布が、大きくたるむ。
「だめ……」榊が、さらに淫らな息をついた。
- 40 名前:Beyond (6) 投稿日:03/08/01 22:23 a+fyUHbc
- 紐を下ろし終わった右手の指は、そのままショーツの中へ差し入れる。左手の指は、もう一方の紐に。
濡れそぼったそこの入り口をなぞるようにしつこく弄びながら、
左側の方はゆっくり、ゆっくりと下ろしていく。
ショーツがいよいよ外れそうになった時、榊が小さな抗議をあげた。「いや…脱がさ…ないでっ…」
「へえ、そうか」神楽が手を止めてやった時には、もはや紐は両太腿の上でたるみきっており、
布は下で蠢く指に辛うじて乗っているだけのような状態だ。
「見たくなければ、ここまでにしてやるよ。けどさ……」
言いながら、神楽は布の下から指を抜き出すと、今度は布の上へ突き立て、
くりくりとそこへ押し込むように張り付かせる。
ぐっしょりと濡れ果てた布は、もはやその下の全てを透かし見せてしまった。
「これじゃ、穿いてないのと同じじゃねえか…?」
そう嬲りながら耳たぶを噛んでやると、榊は叫びにも似た喘ぎをあげた。
そして神楽はショーツを剥ぎ取り、ついに榊の全てをさらけ出した。
はしたなく脚を広げさせて、劣情の証を溢れさせ続けるそこを見せつける。
「そんなにいいのか、ああ……?」汗ばんだ肩に軽く歯を立てながら囁くと、
榊はうつむいたまま首を懸命に振って、震える声を絞り出した。
「いやだ…このまま、こんな物に、なんて……」そして、一度のすすり泣きを挟んだ叫び。
「お、お願い、してっ……き、君がっ……!」
その哀願は、神楽の脳裏に電流のごとく激しい興奮を呼び覚ました。
「よ…よし! してやる! だから……一番、してほしい格好で待ってろ!!」
榊の身体を突き放すと、神楽は昂然と立ち上がって衣服を脱ぎ捨てにかかった。
Tシャツをまくり上げ、ジーンズを下ろすその手間さえまどろっこしい。
そして二人を繋げる装具を手に取ると、一端を自分の中へ咥え込む。
刺激を与えるまでもなく、もはや嗜虐の快楽だけで、そこは十分に濡れきっていた。
榊はといえば、今や布団の上に四つん這いになって、
既に待ちきれないかのごとく尻を高々と掲げている。それが、犯されるために選んだ姿態。
「来て、早く……も、もう、このままじゃっ……!」
- 41 名前:Beyond (7) 投稿日:03/08/01 22:24 a+fyUHbc
- ――これが、榊か!?
今まで見たこともないほどの乱れぶりに少し恐れさえ感じながら、
神楽は榊と初めて会った時のクールな印象を脳裏に描く。
そこから異様な征服感が湧き起こり、神楽の口元は我知らず残酷に歪んだ。
榊をこんなにしたのは、自分なのだ。そう、凛とした美しさと恵まれた才能とで
男女問わず誰もを魅了しながら気安くは寄せ付けない榊が、世界で自分一人にだけ、こんな姿を――。
取り出したスイッチを持って榊にゆっくり近づくと、
神楽は装具の先端を、そこの入り口にぴたぴたと撫で付けてやる。
「と…止めてっ……アレを……」そんな榊の懇願も二度まで放置し、
三度目に許しを乞う声を聞いてからやっと、神楽はスイッチを切ってやった。
「出していいぞ……」いったん先端を引き離しながら、許可を与える。
すぐさま榊は自らそこへ指を挿れ、ローターをゆっくりと引き出した。
たっぷりと体液を絡み付かせたそれが、わずかに糸を引きながら、シーツの上へぽたりと落ちる――
次の瞬間、それよりはるかに太く長い装具が突き立てられた。
「あああぁッ!!」
絶叫する榊の脚を大きく開かせ、神楽は深々とそれを中へねじ入れて、
知り尽くした榊の急所を一直線に責め立てる。
鏡の中で、両脚の間に垂れる大きな乳房がゆさゆさと揺れる。
「い…いい……イイッ!!」
パン、パン……と下卑た音を耳に聞きながら、自身も忘我に至りかけている神楽が吐き散らす。
「ああ? どこがイイって…!? ほら、言えよッ!!」
「だ、だめ……」
「やめるぞッ! 言えッ!!」
「お…」涙に濡れた声で。「お…おま……おまん…こがっ……いィッ!!」
これが榊か!?
神楽は目を閉じて思い出す。初めて対決したあのグラウンドの上で、自分を抜き去った榊の無表情。
その背中を見、悔しさに涙を流したのは自分だった。だがしかし、今は――
「このザマだよッ!」神楽は叫びながら、大きく腰をかき回した。
「見ろよっ…おまえ、見てみろよッ!!」
- 42 名前:Beyond (8) 投稿日:03/08/01 22:25 a+fyUHbc
- 榊は、引き寄せた枕に顔をうずめて悲鳴を押し殺す。
リボンで束ねられた黒髪が波打ち、細く長い榊の指が、シーツをちぎれんばかりに握りしめる。
そうして耐える姿は、健気で可愛らしいとさえ映る。榊自身も、そんな態度を演じるのが大好きだ。
だが――それでは何だ、この貪欲な腰の振り方は? 装具をしゃぶり尽くすかのような締め付け具合は?
それでいて、もう易々とその動きを許している濡らしようは!?
榊が自分に屈服している。なすがままに自分に嬲られ、牝になり下がって歓んでいやがる!
神楽は、危うく自分自身をも果てさせそうになる快感に耐え抜きながら、榊を力の限りに突き上げた。
「何が…『可愛い』もんか! おまえは……こ…こんな、いやらしい身体してっ……」
榊が、うわずった声で神楽の名を叫んでいる。
「こんなこと…され…てっ……」神楽も叫ぶ。そして、最大の力で――「イク女だろうがッ!!」
その刹那、榊の全てが貫かれた。
「いやああぁぁアーッ!!」
榊の全身に痙攣が走り、汗にきらきらと輝く肢体が波打った。
声も身体もがくがくと震わせながら、言葉通りに壊れ落ちていく。
「ぁっ…ぁぁ…ぁ……ぅ……」
そして布団の上に声も絶え入り、二人の息だけが残された後にようやく、
まだ貪欲に吸いついてくる榊から強引に装具を抜き取って投げ捨てると、神楽は枕元へ腰を下ろした。
未だ細かく震えながら枕に押し付けられている榊の頭を掴み、首をねじ曲げるようにこちらを向かせる。
露わになった表情は恥辱の果てに泣き濡れて、美しいあの目は許しを乞うように媚びすがりついた。
――復讐は達せられた。神楽は大きく息を吐き出し、その満足感に浸ろうとした。
- 73 名前:Beyond (9) 投稿日:03/08/04 23:30 Yx5LrKCn
- 長い静寂。
人工的な光の下、辱められた女の息遣いだけが、かすかな淫らさを部屋に残していた。
辱めた方の女は、その脇にうつむいて座り込んだまま、しばらく思いに耽っていたが――
ふと、その顔を相手から見えないようにそむけてしまった。
その心情を察するのも、聡明な恋人にとっては当然のことだった。
思慮深く時を置いた後、やがて淫蕩な疲労と余韻を振り払い、榊はゆっくりと身を起こした。
乱れた後れ毛の一筋をかき上げると、神楽の肩を慎重に触る。
なおも顔をそむけ続ける恋人の名を呼んで、答えを求めるかのように身を寄せ、背中から抱こうとした。
「やめてくれ」神楽のつぶやきは、涙声だった。「……ますます、惨めになるだけだ」
榊は小さな声で語った。「やっぱり君は、こんなやり方で満足できる人間じゃないんだよ」
「お見通し、かよ。本当、おまえの頭のよさにはかなわないってわけか」神楽は忌々しげに言葉を吐く。
「結局、こうなんだ。どうしたって、おまえの方が私より上でさ……」
「そんなこと……」しばし沈黙した榊は、やがて戸惑いを押し切るように、強く神楽を抱きすくめた。
その腕を、神楽は振り払った。「ダメだ」
そして顔を背けたまま、拒絶の言葉を口にする。
「今、ここでおまえに慰められてオチがついちまったら、
それこそ完全に私の負けで終わりじゃないか……。
そうだよな。やっぱりこれだけは独りで乗り越えなきゃ、な……」
二人の間に沈黙が降りた。
神楽には、拒まれた榊の痛みは判る。拒む自分の残酷さもよく自覚できる。
けれど、真に己を賭け続けたこの問題だけは、やはり自分一人の領域に保たなければならない。
どんなに身体も心も融かし合い、どれだけ理解し合った榊とでも、
このことにだけは、やはりライバルとしての一線を置かなければならない――。
- 74 名前:Beyond (10) 投稿日:03/08/04 23:31 Yx5LrKCn
- 「……そういう考え方は、判るよ」榊が言うのが聞こえた。
「私も、自分の選んだ道の厳しさに突き当たったとき、同じように考えたから」
そう。榊にしても、悩み葛藤することから自由だったわけでは全くない。
獣医の仕事が決して動物可愛さだけでやっていけるものではないという現実には、
聡明であればあるほど自ずと向き合わねばならなくなるものだし、
とりわけ動物の犠牲に基づく実習に臨めば、やはり榊は人一倍激しく打ちのめされるタイプだった。
それらの苦悩を身に刻み、自分自身を厳しく内省し続ける過程は、
榊を一時はかなり深刻なところまで追い詰めたこともある。
そしてまた、その姿を見守りながら、同じ道を歩んではいない自分の手では
しょせん何の助言も与えてやれないという無力感を噛み締めるのは、
神楽にとっても辛いことだった。
――だが、それでも結局、榊は自分の力で答えを出したのだ。
「そうだったよな。だから尚更なんだ」神楽は言った。
「最後まで、せめて心の強さぐらいは、おまえに負けたくねえんだよ」
神楽は、滲み出る涙を拭った。榊に拭ってもらうわけにはいかないから。
そのとき、榊の声が耳に入った。
「違うよ。私は独りだけで乗り越えたわけじゃない……。やっぱり、君がいてくれたから」
振り返った神楽を見つめながら、榊は語る。
「君が私に敬意を抱いてくれていたから、逃げ出したい自分を恥じることができた。
そしてまた、現実を受け入れるために変わっていってしまう自分が怖かったときも、
君が変わらず愛してくれていたから、自分はこれでいいんだと安心できた」
神楽は眼を落とした。その眼の奥で、新たな涙がこみ上げてくるのが感じられた。
もはや、悲しみの涙ではなく。
「お願いだ、抱かせてくれ。慰めなんかじゃない」榊が言った。
「本当によく闘ってきた君を、心から尊敬してるから……」
- 75 名前:Beyond (11) 投稿日:03/08/04 23:31 Yx5LrKCn
- 一瞬のためらいもすぐに立ち消え、神楽は榊の胸に飛び込んだ。
柔らかな肌のぬくもりにうずめた頬を、涙がゆっくりと伝ってゆく。
自分の中で押し殺し続けていた想いが、あられもなくほとばしり出た。
「本当は……本当はさ……。ずっと、こうしておまえに甘えたかった。
自分より凄い奴が、自分を認めて、好きだって言ってくれるの、
すげえ気持ちいいじゃないか……。
でも、それってやっぱり負け犬の喜びだから、
ダメにならないようにずっと意地張ってきてさ……」
けれども、いま抱きしめてくれている腕の優しみはどうしようもなく心地よくて、
もはや振り払う意地も溶かしてしまう。榊の背に這わせた指に力を込めて、神楽はつぶやいた。
「……けど、もういいかな……。いいよ、もう。私の負けで、さ……」
「馬鹿なことを言うな」深い愛情を込めた声が注がれた。
「昔……独りだった頃の私は、自分が人をちゃんと愛するなんてこと、ないだろうと思ってた。
可愛いものだけは愛せても、それは一方的なものでしかないって虚しさ、本当はよく判ってた」
安らかに抱かれる感触にただ身を任せ、神楽は言葉に耳を傾ける。
「だけど、君のひたむきさが、私にも本当に尊敬し、愛せる人がいるってことを教えてくれた。
それは、たとえ競技での勝利にはつながらなかったとしても……私をこんなに変えてしまったんだ。
完全に、君の勝ちだよ」
神楽は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そういうことに、しておくか」
微笑むことができた。まだその頬に残っている涙を、榊の掌がそっと拭う。
その手を、神楽は取った。心を込めて、美しい指の一本一本に唇を重ねてゆく。
そして見つめ合い、想いを高く募らせて、神楽は口にする。「やり直そうか」
榊が、穏やかな微笑みのままに頷いた。「今度は、ちゃんと一つになろう」
- 76 名前:Beyond (12) 投稿日:03/08/04 23:32 Yx5LrKCn
-
二人、向き合って座り、身体を一つに絡め合う。
こうやって、どちらが上になるということもなく、お互いにじっくり愛し合いたい。
あらためて繋がる部分は、前戯を弄するまでもなく、共に濡れ果てていた。
心の奥底まで結びつき合った想いの確かさは、そのまま肉体の欲求へ続いているのだから。
そして、そんな愛欲の露骨さも、二人にとって決して恥ずべきことではない――。
「んっ……」自分の最奥までそれを導き入れ、神楽はぶるりと、小さく息を震わせた。
榊が問う。深すぎるんじゃないか――?
「これで、いい……」かぼそく答えながら、いっそう密に、ぎゅっと身体を合わせる。
今は1ミリでも多く、榊と触れ合っていたい。1ミリでも深く、榊と繋がっていたい。
榊が動いた。神楽の中を、強く優しく愛してくる。
「あっ……ぁっ……」律動に沿って漏れ出す声は、神楽自身をも陶酔させるほど艶めかしかった。
しなだれかかるようにしてうつむくと、榊は神楽の前髪をかき退けて、汗ばむ額に口づけ、囁く。
「ふふ、可愛い……」
愛玩される歓びが、ぞくぞくと神楽の背中を走った。
けれど、ただ愛されるだけではいや。力を込めて、こちらからも榊の中へ想いを刻む。
そしてぬるりと濡れたその背中を指先でねっとりと撫で回し、昂ぶる榊の震えを余すところなく感じ取る。
そこからは、休みなく続く交歓のラリー。
互いを精一杯に愛するため、たゆまず研究と練磨を重ね合った技巧の応酬。
他の誰をも知らないけれど、自分たちは間違いなく最高のパートナーだと確信できる。
いま感じ合うのは、身体の全てで。柔肌の触感は淫らにぬめり、熱い体温の下からは脈動が染み入る。
濃密に入り混じる二人の匂いが鼻腔を満たし、耳元で吐き出される息は湿って強く震えていた。
そして、それら全ての感覚を乗せて流し込んでくるかのように、
ひときわ巨大な快感の波濤が、身体の奥底で果てしなくしぶきをあげ続ける。
さっきとはまるで違う。神楽を包み込む感情は、ひたすらに深い一体感だった。
感じる歓びと感じさせる歓びが、距離を縮める。
いま自分の喉から漏れる嬌声は、どちらのせいなのか?
そんな問いも、もはや無意味だ。二人は一つで、歓びも一つに融け合っているのだから――。
- 77 名前:Beyond (13) 投稿日:03/08/04 23:33 Yx5LrKCn
- 「私たちが…出会ったのは……」榊が、喘ぎの奥から言葉を絞り出した。「本当にっ…運命だった……!」
「な…なんだ、よっ……」こんなときですら照れくさい台詞が、神楽の感情をいっそう煽る。
榊が教えた。「覚えてないか…? 会ったとき、そう言ったのは君だよ……」
ああ、そういえば――。
あの遠い過去の日、小柄で少年のような少女は、出会って間もない長身で寡黙な少女に語ったのだ。
『私たち、運命のライバルだって思わせてもらうぜ。 負けねえからな!』
あの時代。自分は勝てると信じていられた頃。
しかし、その幼い自信はやがて当の相手に否定され。傷つき、悲しみ、打ちのめされ。
なのに、なぜかその相手に執着する思いは捨てきれず、
ついには愛してしまっていたことを知って怯えたとき、今度はそれを優しく受け入れられて。
時の流れは人を育て、無邪気な子供から痛みを知った大人へ成長させた。
けれども――「運命」、その言葉の意味を変えて、私は今も、この人とここにいる。
一つになって、淫らに愛し、愛され、愛し返すそのたびに、悔しさも、哀しみも、切なさも、
全ての記憶と感情が快感の中へ溶かし込まれて、恋しさに混じり合っていく。
「ぁ…ンっ、もっと…もっと! 一緒に……あ、ああぁーッ!!」
膨れ上がる想いに耐えきれず、涙がとめどもなく溢れ出す。榊も同じだ。二人で一つの想いならば。
榊が口づけしてくる。涙が頬の上で混じり合った。
浴びせかけられる声は、うわ言のよう。「好き……。すきっ……!」
「好き、なんてもんじゃ……!」神楽は叫んだ。そんな言葉で足りるわけがない。
尊敬し、追い続け、嫉妬し、憧れ、憎み、そして愛した。
私の青春は、全部おまえと一緒だった――。
- 78 名前:Beyond (14) 投稿日:03/08/04 23:34 Yx5LrKCn
- 不意に、何かとてつもない波が迫る予感がした。今までに一度も感じたことのないほどの。
怖い、と思った。でも――この人とだったら。
榊の名を激しく呼んだ。
おまえとだったら、どこまで行ってもいい。一緒に壊れよう。果てまでも。
握り合っていた榊の手が、ぐっと力を込めてくる。もう、あの合図!? 待って!
今だけは、この瞬間だけは、絶対に一緒でなければ。そんな思いに駆られて、神楽は絶叫した。
「いやだっ! もう、私を置いていくなッ……!!」
榊が、最後の力を振り絞ってくれた。神楽の全てを知り抜いた責めで、最高の快感を叩き込んでくれる。
神楽自らも、それを精一杯に感じられるよう求めた。
そして、それが来た。巨大で、彼方までも続きそうな高みだった。
意識が、どこか遥かなところへ遠のいてゆく。
その只中で、神楽が感謝の念を込めながら榊の手を握り返したとき――
世界が瞬いて、消えた。
- 79 名前:Beyond (15) 投稿日:03/08/04 23:34 Yx5LrKCn
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眠りから覚めてまず感じたのは、ほのかな薄明かり。
そしてコーヒーの匂いに引かれ、ゆっくりと身を起こす。
「おはよう。ちょうど、これから淹れるところだった」榊が微笑んだ。
衣服を引っ掛けながら、身体の底に疲労が澱のように溜まっているのを感じる。
それでも、辛い感覚ではない。最高の泳ぎをしたときにも似た充実感がある。
ぼんやりとした頭で窓辺に立ち、青灰色からだんだん白んでいこうとする世界を眺めながら、
やがて神楽はつぶやいた。
「あれの瞬間で、ぷっつり記憶が途切れちまってる……」
榊が寄り添い、カップを手渡してきた。
「私も同じだ。二人で一緒に気を失ってた」
語る榊の声は、いつものようにしっとりとして凛々しい。
けれども、どこかでまだ昨晩の自分を忘れられないでいるような艶めかしさをも湛えていて、
「……心中、みたいな気が少ししたよ」
その言葉には怖れと共に、かすかな憧憬の気配が漂っていた。
死。その概念に少し寒気を感じて、まだ熱いコーヒーを神楽は啜った。
けれども確かにそれは、あの境地を名付けるのに限りなく似つかわしい言葉でもあって。
それならば、さしずめ今の自分は生まれ変わりだろうか?
そうだな――と、神楽は心の中で独りごちた。
昨日までの自分は昨晩、燃え尽きて望み通りに死におおせたのだ。だから、もう引きずる遺恨はない。
静寂の中に、やがて馴染み深い小鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
眩しさを増しつつある光の中で、神楽はコーヒーの熱を最後の一口まで身体に満たした。
――それでは新生の朝に、さしあたっては何をしよう?
決まっているな。テーブルにカップを置くと、神楽はランニングウェアを取りに向かった。
水泳に捧げた日々は終わっても、運動を教える夢のために日課は続く。
榊はもちろん、不思議な顔ひとつせずに送り出してくれた。
日常の言葉がよみがえる。
「そういえば、夕べ醤油が切れたんだ。途中のコンビニで買ってきてくれないか」
「そんなの、スーパーの方が安いだろ。どうせパーティの準備で行くんだからさ」
また、新しい一日が始まってゆく。
- 80 名前:Beyond (16) 投稿日:03/08/04 23:35 Yx5LrKCn
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「……そうだな。頑張れば必ず勝てるなんて、そんな嘘は言わないよ。
勝つ奴がいるってことは、負ける奴がいっぱいいるってことだもんな」
夕焼けに染まる水面をプールサイドから眺めながら、ジャージ姿の若い教師は少女に語った。
「私も、頑張ったけど負けちまったクチさ。勝ちたいと思ってて勝てなかったんだから、言い訳はしない。
ただ、それでも結構いい思い出だって誇れるのは……簡単にはやめなかったから、だろうな」
少女は、うつむいて目に涙を浮かべながら、慕う顧問の名を呼んだ。「神楽先生……」
その肩に、神楽は優しく手を置く。「ま…この休みの間に、ゆっくりして元気つけてこいよ」
少女が頷いて笑顔を見せるのを見届け、ややあってから神楽は口にした。
「ライバルとか、いるか? 勝っても負けても尊敬できるような相手がいると、張り合いが違うぞ」
その問いに、少女は照れ笑いをしながら答えた。
「実は、先生が……かな。前聞いた、先生が高校のときのタイムを目標にしてるんです」
「私が……?」そうか、自分が。「よし、頑張れよ!」
「はい」少女は答え、それから少し間をおいて、顔をそらしながら照れを打ち消すように続けた。
「……じゃ、先生がプールの点検やってる間、私は更衣室を見てきましょうか」
「ああ、ありがとう」
外へ出ていく教え子の背中を、神楽は見送る。
あの子に越えられる、ということを想像してみる。焦りも悔しさも、今の自分には湧かなかった。
それは言ってみれば、もう現役を離れ、競争心を失ったゆえの気楽さではあるのだろう。
ただ――だからこそ、心からそれを祝福することはできるはずだ。
だとすれば、今はこの気楽さも決して悪いことではあるまいと思う。
- 81 名前:Beyond (17) 投稿日:03/08/04 23:36 Yx5LrKCn
- 点検の最後に水温計をプールへ差し込みながら、神楽はあらためて水面の輝きを見つめた。
さっきの話題のせいで、何だか昔のことを思い出してしまう。
選手としてこの輝きを見ていたとき、自分はどんな気持ちだったっけ。
それがどんな感じのものだったかは、確かによく覚えている。喜びや悔しさという、その名前は。
けれど感情そのものの記憶は風化してしまっていて、リアルに思い起こすことはもはやできない。
瞼の裏に一生焼き付いたまま残るだろうと思った最後のあの輝きも、今ではずいぶんぼやけてしまった。
水温を記録し終え、神楽は水温計を隅の用具室に戻す。
暗く熱気のこもった空間は、今しがたの回想と結びついて、あの夜のことを想起させた。
そちらの記憶は、頭脳よりもむしろ肉体の奥深くにおいて、今も強く残っている。
あれ以降の年月、榊とどれだけ身体を重ねたかは、もちろん数えきれないほどだ。
しかし、あらゆる愛憎が渦巻く巨大な混沌の中で到達したあの境地には、
二度とめぐり会うことができないままでいる。
今でも時々思い出しては、もう一度欲しいとの切望に身体を疼かせることがあるけれど、
多分それは決して叶わないのだろうと、確信に近い思いもあった。
きっとあれは、例えるならば青春の死が最後に見せた走馬燈。
ならばあの境地もまた、青春そのものと同じように、
もはや手の届かない追憶の中に偲び続けるしかないのだろう。
――そこまで考えてから、神楽は自分の頭を軽く叩いて首を振った。
何を、柄にもなく感傷的になっているんだろう。この後は、久しぶりのデートだというのに。
今日は今日を、明日は明日を、精一杯に楽しむだけではないか!?
だから考えをさっぱりと打ち切って、神楽はプールサイドを後にした。
- 82 名前:Beyond (18) 投稿日:03/08/04 23:37 Yx5LrKCn
- プールの扉に施錠して更衣室に向かい、少女と合流する。
談笑しながら一緒に歩き出したとき、神楽はこちらへやってくる恋人の姿に気づいた。
息を呑みながら、少女が問う。「……もしかして、あの人が先生の……?」
すらりとした長身に成熟した美貌をたたえる榊の姿には、
同性としても気押されるものがあったのだろう。
榊からの落ち着いた会釈に応える様子にも、やや動揺の色が浮かんでいた。
「何だよ、校門のとこで待ち合わせだったろ」
「少し早く着いたから。高校って、何だか懐かしくなって」
「ま、そうだなぁ……」神楽は、周りに広がる光景を眺め直しながらつぶやいた。
「私には毎日の職場だけど、あらためて一緒に思い出すと……やっぱり懐かしいかな」
二人の過去で交わる絆の間に、少女の居場所はなかった。そして、そのことは少女にとって――。
「あの、私はお先に失礼します」頭を下げると、少女は早足に去っていった。
遠ざかるその姿を見送りながら、榊が口にする。「……ちょっと、悪いことをしたかな」
神楽には、その言葉の意味はよくわからなかった。
「先生も、板についてきたって感じだね」
「どうかなあ。黒沢先生に追いつけてるかなって、いつも焦ってるよ……おまえの方はどうなんだ?」
「石原先生は私を評価してくれてる。もちろん、思い上がっちゃいけないけど。
……そうそう、今日は忠吉さんが検診に来たんだ。相変わらず元気だった」
「お、もしかしてちよちゃんにも会った?」
「いや、さすがにお父さんの秘書の仕事が忙しいらしい。
でも伝言があったよ。今度みんなで集まるときは、時間をとって行きたいって」
「へえ、そりゃ楽しみだ。いつごろみんなの都合がつくかな」
そんな会話を交わしながらグラウンドを横切っていくうちに、ふと榊が足を止めた。
その見つめる先には、引かれたままになっている五十メートル走のラインが、
黄昏の光を浴びながら長く続いていた。
- 83 名前:Beyond (19) 投稿日:03/08/04 23:38 Yx5LrKCn
- 「……いま走ったら、どうだろうな」榊が、そう口にした。「私はもう、勝てないかもしれない」
神楽は、足元に目を落とした。対照的な長さの影が、二つ並んで延びている。
きっとこの影の姿は、あの頃とほとんど変わっていないのだろう。
榊、勝負だ。そう挑んでいた自分の言葉が、今にも聞こえてきそうにさえ思えた。
けれど――。
「うーん……」ラインの果てをもう一度見つめ直した後、神楽は言った。
「でも、今さらおまえに勝ったとしても、何か困っちまうっていうかさ。
それに――もうあの頃みたいに、人に勝ちたい、勝ちたいって気持ちはなくなっちまったよ」
「そうか……」榊は微笑み、小さく踵を巡らした。
ふと、その微笑みに少し寂しげな色が浮かんでいるように見えたので、
神楽はすぐに榊に寄り添い、そっと指を絡ませた。
「――大丈夫だよ。これだけは、絶対に変わらないから」
榊ははにかんで、しかし、きゅっと指を絡め返してきた。
車に乗り込んだら、キスをしよう。コロンの香りを、胸いっぱいに吸い込んで。
それが待ち遠しくて、神楽は歩みを少しだけ速めた。
(了)